戻る
行 動 記 録
 昨年10月に強烈な腰痛に襲われ診察してもらったところ、腰椎々間板ヘルニアと診断され入院、11月末に手術をした。年末に一度は退院したものの、今年1月17日の阪神大震災でおかしくなり、再び痛みが激しく歩行不能となり2月に再入院、毎日8Kgの牽引をつづけながら,安静治療と時々注射をうってもらい、何とか痛みも軽減、婦長さんに『もう来なくて済むようにネ』とのことばに送られ4月中旬に退院する。
 今年の夏山はこのようないきさつから、まず無理だろうと半分あきらめ、半分は希望をもって7月をむかえる。
 連休が近づくにつれ、ソワソワする気持ちは抑えられず、東北の磐梯・吾妻・安達太良山系はどうだろうか、いや尾瀬の方が適当かも・・・等と計画してみるが信州にくらべやはり遠い。例年のような縦走は無理だろうが、ロ−プウウェイの使えるところで適当なコ−スはないかと検討の結果、急拠北アルプス西穂高岳登山を計画、思い切って実行する事とし、バタバタと前々日に準備をして出かけることとなった。
■ 8月2日(水) 晴のち曇り

 朝8時丁度に自宅を出発。今年の夏の日差しの強さは非情な迄きびしく、汗をかきながらのスタ−トとなる。冷房のきいたバス、地下鉄を乗り継ぎ、新神戸で名古屋迄の”ひかり”と、名古屋から高山迄のL特急”ひだ5号”の指定を申し込む。ウィ−クデ−であったせいか、運よく両方共予定の時刻のものがとれてラッキーなスタート。阪神大震災で高架が落下したあたりも、なにごともなかったように通過してゆく。
 いつもは夜行でゆくところを、今回は昼の新幹線とL特急の乗り継ぎの入山となり、運賃は高いがその分足は早い。高山線では時々車掌が沿線の名勝地の観光案内も放送で流してくれる。夜行の旅にないのんびとした時間が過ぎてゆく。 高山に近づくにつれ空は暗くなり、やがて窓ガラスにポツリポツリと雨が降ってきたがJR高山駅についたころには止んでいた。
 特急バス(座席指定バス)の乗車券を買いバスに乗り込む。ほとんどが観光客と思われ我々の他に数人の登山客も含めて定員で発車する。途中、飛騨鍾乳洞、平湯温泉で幾人かの乗降客があったが大半が終点の新穂高温泉迄のようだ。
 14時30分、新穂高温泉で下車後、登山届けの提出を済ませロ−プウェイ駅へ。ちょっと気が引ける思いをしながら、観光客といっしょにロ−プウェイに乗り込む。晴天続きだった今までの気圧配置も、ここにきて少しづつ変化が現れてたが、かなり天候は不安定のようだ。ロ−プウェイから眺める景色も本来なら槍、穂高連峰から抜戸〜笠が岳の稜線も満喫出来るはずであるが、今日はガスの中でダメ!。ガスの切れ間から見える、残雪と緑のコントラストに、夏山にやってきた実感を味わう。
 第一ロ−プウェイの急斜面(最大斜度36度)、長い第二ロ−プウェイで運び上げられた我々は、約15分の空中散歩の後、千石尾根の西穂高口駅に降り立つ。標高2156m、やはり風は涼しい。ロ−プウェイが無ければ、廃道になりかけた昔の登山道を、約3時間かけて登ってこなければならないところである。ロ−プウェイができてからは、便利になったがその分人も多くなった。駅の周辺を散策して、再びロ−プウェイで降りてゆく観光客が大半で、ここより登山道を西穂山荘へ向かうのは、登山目的の者が数人づつパラパラと森林のなかに消えてゆく程度である。ここから山荘までの道は、あまり傾斜もきつくなく森林のなかをゆっくりと登ってゆく。道路脇に掲げられた説明板によると、このあたりの森林は過去に一度も伐採されたことのないところで、ぶな、けやき等の広葉樹の原生林がそのまま残っている森林地帯であることが記されている。思っていたより登山者も少なく、静かな森林浴を味わいながら、西穂山荘の建つ稜線へ黙々と進む。例年だと夜行列車で着き、4〜5時間の登りにフ−フ−言いながらの入山であるが、今年は腰のことも考えての計画であり、歩く距離も1時間で山小 屋に到着するコ−スを選んだ。
 16時、ラジオ気象通報の時間であるが、止むなく歩きながら聞くのみにとどめる。やがてガスの中に建つ、西穂山荘に着く。 小屋の入口の柱に掛けられた大きな寒暖計は15゜Cを示している。なにはともあれまずはビ−ルを一口。
 西穂山荘は昭和60年頃一度火災で焼失したがすぐに再建され、数少ない通年営業の立派な山小屋である。宿泊の手続きをし、2階の部屋に案内される。他の山小屋によくある2段式の大部屋ではなく、ひとつひとつが独立した落ち着きのある部屋である。今夜はこの部屋を6人で使うことになったらしく、すでに4人、2カップルが先に入っていた。
 壁にはその時々の収容人数に応じた寝方の図解が貼られてあり、この部屋では最高12人迄の図が示されていた。12人が寝るときは、となりどうしは足と頭を交互にするように示されているが、たしかにそうでもしないと納まらないだろう。
我々が最後の入室者だったので先着順に場所を決めてもらい、我々は入口を足にした位置となる。
 夕食前のひとときを小屋の前で高山植物を撮ることとし外に出る。クルマユチ、ハクサンフウロ、ウサギギク等が可憐な花をつけていたが、総体的に高山植物の少ない所のようだ。明日のコ−スの途中、独標周辺は地図ではお花畑の表示もされており、それを期待しながら今日の行動を終える。 夜が更けるにつれ、外では風が出てきたようだ。この風がガスを吹き飛ばしてくれればよいが。

■ 8月3日(木) ガス、風共に強し

 5時15分起床、朝食を済ませ小屋を出る。今日は西穂高岳頂上往復のため、行動食、水筒、雨具等必要なものだけをサブザックにつめ、残りを小屋に残し6時25分出発。
 雨は降っていないが、濃いガスと強い風の中の行動となる。ここ数年山の天候には恵まれていなかったが、今年は太平洋高気圧がどっかといすわり、かんかん照りの日が続き、期待していたが、やはり下り坂の兆候を示していた気圧配置は正直なもので、今年も視界のないガスの中を登ることとなった。全くついていないことをしきりに嘆いてみるがしかたのないこと。視界がよければ、槍、穂高連峰の荒々しい稜線(岩稜)、六百山、霞が岳の緑の稜線、眼下に見下ろす岳沢、上高地の箱庭のような景色、左手には笠が岳〜抜戸岳〜双六岳、さらに北の奥の方に薬師、立山、剣岳が、また、ふりかえれば焼岳、乗鞍岳、遠くに御嶽山も望むことができるのにと思うと残念である。
 小屋を出てゆるやかな登りを10分もすれば、コブ状のピ−ク、丸山に立つ。このあたりから独標にかけての右斜面(信州側斜面)は、お花畑のはずであるが、今年はサッパリである。小屋の人の話だと『花が少ないのは今年の梅雨が例年になく雨が多く、日照りがかなり少なかったことが原因でしょう』とのこと。
 あいかわらず濃いガスと強風の中、独標へ足を進める。独標への最後の登りは、それまでのなだらかな尾根歩きとは少し異なり、大きな岩のやゝ急な斜面を登ってゆく。10分程で独標のピ−クに着いたが何も見えない。
 西穂山荘から登ってくるパ−ティのうち、95%以上はこの独標までの行程であり、ここで少し休んで引き返してゆく。我々二人は5分ほど休憩をとり、さらに先の西穂高岳の頂上をめざして出発する。独標からはル−トの様相も一変し、西穂高の頂上迄に大小の岩峰がつづく熟達者コ−スとなる。忠実にピ−クをひとつひとつ越してゆくところや、飛騨側を巻いてゆくところを、白ペンキの目印に導かれ進む。雨は降っていないが、強風に叩きつけられるガスで、衣服も濡れてきたため上のみ雨具を着る。途中から風がさらに強くなり、帽子もかぶっていられなくなる。雨具のフ−ドをかぶるのもあつくるしいので、帽子を胸のポケットに収め、ちょっとした岩登りを必要とするのピ−クも越えながら進み、ひときわ大きなピ−クの頂に立つと、そこが西穂高岳2908mの頂上であった。
 高度を増すにつれ風は強くなっているようで、風下の信州側の岩影に休憩の場所を確保する。この頂上には単独行の男性が一人いるだけで、静かなものである。ガイドブックによれば、たしか独標から西穂高岳頂上までに大小13のピ−クが連なるとあったが、ピ−クを巻いて通過するものもあり、ガスの中で先のピ−クが全く見えなかったため、正確には数えられなかったが、8つ目ぐらいの感じでいたピ−クが、頂上であったのにはちょっととまどったが、すぐに目的地に着いた安堵感に変わっていった。しかしここでもなにも見えない。晴れていれば・・・・少し腹も立つがここで腹を立ててもしかたない。
 昭和37年春山の個人山行(上高地から西穂山荘経由西穂高)、昭和47年春山合宿(岳沢ベ−スキャンプによる西穂沢直登〜西穂高)と合わせ、今回は3回目の西穂高岳登山である。昭和37年の春山残雪期登山のときは、巻き道は雪崩の危険性が強いため、雪をかぶった各ピ−クを忠実に進んでいった。ときにはザイルを使っての登り降りもあったが、夏山ではその様なところは巻き道になっていた。
 この西穂高岳からさらに奥穂高岳への稜線は、日本アルプスでも屈指の岩稜コ−スであり、岩登りの要素がさらに大きくなってくるところである。 我々は、ここで引き返すこととし、20分程休憩ののち、来た道へ出発する。独標で行動食(パンとパックジュ−ス)をとり、エネルギ−を補給する。
 ここ西穂高の独標は、昭和40年頃の夏山に地元松本の高校生が、学校行事として登山したとき、落雷にあい、たしか10数人が吹っ飛ばされて死亡するという惨事があったピ−クである。たしかに逃げ場のないところであり、当時の状況を想像するとゾットする。
 9時45分、独標をあとに下降、10時35分西穂山荘に帰着、「西穂高岳登頂認定書」を発行しているというので今日の記念にと1枚発行してもら。
 全焼後再建された西穂山荘は、非常にガッチリした木造2階建ての山荘に変わっていた。トイレにも工夫があり、用便後のペ−パ−は備え付けの専用器に入れるようになっており、『環境保護のために焼却処分します。』と書かれてありそれに従う。このためほとんどトイレの匂いもなく、快適な山荘の一夜を過ごすことができたことに感謝したい。 新穂高温泉のどこかに空きがないか、地図に記載の旅館の電話番号をしらべ、電話で聞いてみたところ、運良く村営笠山荘に空きがあったので今夜の予約をする。
 計画時、下山ル−トとして、
  (1) 上高地へ下り、松本〜神戸
  (2) 焼岳の北に位置する中尾峠から、蒲田川中尾温泉へ下るコ−ス
  (3) ロ−プウェイで新穂高温泉へ下るコ−ス
を考えていたが、笠山荘の予約がとれたので、必然的に(3)のコ−スを下降することになった。
 今年は腰のことを考えれば、決して無理はできず妥当なコ−スと言えよう。小屋から1時間、森林コ−スを下りロ−プウェイの西穂高口駅に着く。ここまで下ってくれば上の稜線の強風とガスもうそのように弱い。
 笠山荘には、昭和42年正月に大変お世話になった。昭和41年12月31日、神菱会山岳部冬山合宿で穂高・涸沢岳西尾根蒲田富士にて雪庇崩壊による遭難時の現地捜索本部として使わせて戴いたところである。
 当時の面影はなく立派な旅館に改築されていた。夕食までのひととき、旅館内の露天風呂に入ったのち、近くの散歩に出てみる。道端には、ホタルブクロ、赤花ツリフネ草、オダマキ等亜高山の山野草の花がちらほら見られ、今年も夏山に来ることが出来たことをかみしめる。

■ 8月4日(金) ひにくにも帰る頃になって晴れ

 8時20分発の高山行始発バスに乗車、入山時は特急バス(座席指定バス)であったが今日は乗合バスらしく、途中から乗ってくる客は立ち席の人もいた。
 うだるような暑さのなか、9時50分JR高山駅前着。駅前で観光協会らしき人たちの接待による冷えた麦茶のサ−ビスを受ける。うまい! 帰路は15時25分発の急行”きたぐに”の座席指定がとれたので、荷物を駅のコインロッカ−に預け、高山の街の観光をしておこう。いままで高山は何度か降りたが、入下山時に通過するだけで、街の観光散歩は初めてである。一度は歩いて見たいと思っていた街ではあったが、今回やっと実現できた。観光案内所でもらったパンフレットを片手にスタ−ト。
 見たい所が多すぎてコ−スをどうとるか、しばし思案のすえ、「宮川朝市〜古い町並み〜高山陣屋」を見て回ることとした。宮川朝市の前を流れる宮川には、たくさんの鯉と、鮎ぐらいの魚が泳いでいたので、朝市のおばさんに訊ねると”うぐい”だと教えてくれた。
 100軒ちかくの店がでているのだろうか。野菜を売る店、つけものばかりを並べている店、干物を扱っている店、駄菓子店他それぞれ少しでも
目につくように、工夫を凝らし、売り込みの声も力が入る。そんな中、朝市にはどう見ても不釣り合いと思えるアクセサリを売る出店もあり、伝統の中にも少しづつ様変わりしてきているのだろう。暑い日差しのテントの下で頑張っておられる様子は、観光というより生活の匂いの方が強い朝市の光景である。
 古い町並みのつづくところは、思っていた以上に見事である。倉敷の大原美術館前の土蔵の町並みをイメ−ジしていたが、全くスケ−ルが違っていた。路地の両側に流れる水は清く、水量も適度に多く、ひしゃくで家の前に打ち水する家々の様子が、懐かしい時代に戻され、なんとなくホットする雰囲気のする町並みであった。
 高山陣屋は、全国唯一の郡代所遺構としての、国の史跡とのこと。元禄時代の役所の様子がよくわかる。なかでも“おしらす”と呼ばれたお裁きの場所や、拷問部屋などはその当時の道具も含めそのままの状態で保存されており、映画村のセットと異なり実際にここで多くの人たちが裁きや拷問を受けたところと思うと身がひきしまる。いつまでも保存してほしい遺産である。
 時間に追われながらの観光であったが、また機会があればゆっくりと訪ねてみたい気持ちを心のお土産に、高山を後にし帰神の途につく。

戻る