仲間と登った想いでの山々

昭和45年春山合宿 北アルプス岳沢・穂高岳


と き昭和45年4月30日(木)〜5月4日(月)
コ−ス
神戸=松本=上高地〜岳沢〜穂高連峰登攀〜上高地=松本=神戸
メンバー(CL)前畑(SL)遠藤、菅田、鈴木、周治、渡辺、津川、高見、伊藤、吉田、小林、橋本、大畑、西谷、花沢
行 動 記 録

■ 4月30日(木) 晴れ

朝から大きなザックを担ぎ、山行きスタイルで出勤。定時後清和荘にて夕食を済ませ、18時32分発の和田岬線で全員揃って出発する。19時24分、大阪駅で一旦途中下車し、コンコ−スで急行"ちくま2号の列に並ぶ。既に列は長蛇をなし、座席の確保はおろか乗車の確約さえあやしい不安な気持ちで最後尾に加わる。発車まで約1時間、いつものことながら乗ってしまうまでの落ち着かない気持ちを抑えつつ改札開始を待つ。準急から急行に格上げされて久しいが、大勢の山屋がギュ−ギュ−に詰められ、座ることすら出来ない状態で信州入りするパタ−ンは今も昔も変わっていない。

■ 5月1日(金) 晴れたり曇ったり

5時06分、ひんやりとした松本駅に降り立つが、ほとんど眠ることもできなかったせいか、頭の心がスッキリしない。バタバタ、ドヤドヤと乗換えホ−ムに急ぐ連中に遅れは取れないと足早に進む。新島々行きのホ−ムに再び整列。待つこと約40分、2両連結のディ−ゼルカ−に揺られて早朝の信濃路を走る。 ガタゴト、ガタゴトと響く音はリズミカルであるが、決して乗り心地のよい車両ではない。にもかかわらず何せ寝不足のせいか直ぐに船を漕ぎだす。床に座り込んでの居眠りも束の間、30分の乗車時間ではかえって欲求不満が増す思いだ。 新島々からさらにバスに乗り継ぐや直ぐに眠り込んでしまう。一眠りしたころエンジンの音がひときわ大きくなり目を覚ます。釜トンネルである。トンネルを抜けるといつに変わらぬ素晴らしい上高地の景色が目に飛び込んでくる。少しもやった大正池のかなたに、たっぷりと雪を残した穂高の山並みが美しい。 新島々でのバス待ちで約1時間40分のロスタイムがあったため、上高地9時55分の到着となる。五千尺旅館の食堂で朝食を済ませ、河童橋を渡り梓川右岸側の林道を進む。最初のうちは雪解けのぬかるみで山靴が汚れるのを気にしていたが、やがて岳沢への登山口道に入り雪道となる。太いぶな林の坂道をゆっくりしたペ−スで登りはじめる。 この道も何度目になるだろう。最初に歩いたのは未だ山岳部が出来ておらず、南・松永を誘い上高地−大滝山−蝶が岳−涸沢−奥穂高岳−前穂高岳−岳沢に下った昭和36年の夏山、2度目が昭和40年10月、紅葉の岳沢から涸沢側へ小西嬢(何故か今は女房となっている)と穂高越えをしたときのコ−ス、今回は3度目のようだが、おそらくまだ何度かは通ることがあるだろう。その時々の思い出が走馬灯のように頭のなかをかすめてゆく。 ぶな林を抜け岳沢の広い沢筋の中にある少し盛り上がった地点をベースキャンプ地(BC)と決定し荷を下ろす。 上高地から2時間、非常にアプローチの短い魅力ある入山コースである。午後からは明日からの登山活動に備え、周辺の偵察メンバーと雪上訓練メンバーに分かれて行動、入山初日を終える。

■ 5月2日(土) 晴れ

3時50分起床、若手炊事当番は3時30分起床。今日は4隊に分かれての行動と昨日の内に決定しており、それぞれの健闘を期して出発する。なお、各隊との交信時間は毎時40分からと決定。  A隊:こぶ尾根登攀            (L:津川 伊藤 吉田) B隊:ジャンダルム飛騨尾根登攀      (L:鈴木 遠藤 前畑) C隊:間の岳−天狗のコル−岳沢BC周回  (L:渡辺 高見 ) D隊:西穂高独標往復           (L:菅田 小林 橋本 週治 大畑 花沢 西谷) 5時20分ベースキャンプを出発。引き締まった雪面を踏みしめ一旦上高まで下る。河童橋では橋を渡らずそのまま梓川右岸を進み、ウェストンレリーフ前を通過し、6時5分に西穂高山荘への登山口に着く。5分ほど小休止をとり、西穂高山荘への登山道に入る。再び雪道となり時折膝までズボッともぐったり滑ってバランスを崩したりしながら樹林帯の中を登ってゆく。 6時40分、C隊からの交信電波が飛び込んでくる。応答するもこちらの電波はどうやら届いていないらしい。C隊からAかB隊への交信によると、最新の天気予報では、今日午後からゆっくり下り坂となり、今夕より風雨次第に強くなる予報だと知らせてくれる。 9時20分、森林限界点に建つ西穂高山荘に着く。小屋前にて小休止を取り9時35分出発。ここからは樹林帯を抜け出し、広い尾根をアイゼンを効かしながら丸山のピークを経て10時50分に西穂高独標に着く。先ほどピーク直下での交信で確認した各隊の行動位置は次のとおりであった。 A隊:こぶ尾根の頭直下 B隊:飛騨尾根登攀中 C隊:間の岳頂上とのこと。各隊とも順調のようだ。ここD隊の立つ西穂高独標から北方の西穂高岳〜奥穂高岳に通ずる岩稜のルートは、ここを境にしてその様相もガラリと変わり、熟達者ルートとなる。我々はここまでとし、行動食をとりのんびりとした時間を過ごす。11時40分、交信時刻となり再度各隊のその後の位置を確認しあう。 A隊:ジャンダルムコル・ロバの耳直下 B隊:飛騨尾根第2テラス C隊:天狗の頭 D隊:西穂高独標であった。 11時50分、これより引き返すこととし下降開始。独標ピークの下りはやゝ急峻な岩肌であるが、足場はしっかりしており慎重に下降。西穂高山荘前からの下りはグリセ−ドでの下降を楽しむ。 下りきった登山道入口からは朝来た道をたどり、河童橋経由で岳沢を登り16時40分BCに帰還する。 天気予報では天候は下り坂と言っていたそうであったが、あまり大きな変化もなさそうなので、明日は前穂高岳を奥明神沢から登頂するパ−ティと、西穂高沢から西穂高岳を登頂するパ−ティに分か  れて行動することに決定する。

■ 5月3日(日) うす曇り 視界良好

前穂高登頂隊(L:前畑 伊藤 渡辺 高見 西穂高登頂隊(L:遠藤 菅田 吉田 津川 週治 小林 橋本 大畑 西谷) (テントキーパ:鈴木 花沢)  昨日は若手、女性を連れて西穂高独標まで往復してきたが、今日は西穂高沢を直登し西穂高岳のメンバ−に入り行動する。 6時30分起床、8時BCを出発する。昨日のルートと異なり今日はBCからアイゼンを付けての登攀となる。岳沢の谷芯をトラバースし、すぐに西穂高岳から落ちてきている西穂高沢に入る。適度に締まった雪面にアイゼンの爪の効き具合も良い。次第に傾斜もきつくなり、足首の前傾角度が次第に増してくる。アイゼンを踏みしめピッケルで体を支えながら一歩一歩慎重に登ってゆく。 前穂高隊の方も奥明神沢の急斜面を喘ぎながら登っている旨トランシーバで伝えてくる。どうやらゴマツブのように見えるパーティがそれらしい。 最後のひときわ急な斜面を登りきると稜線に飛び出す。稜線の雪は風で飛ばされる関係上、積雪も少ないために、すでに岩肌も出ている所もあり、アイゼンの爪がキリキリと嘆くような音をたててきしんでいる。 稜線を30分ほど南に進み、11時に西穂高岳のピーク(0000m) に立つ。しばし素晴らしい景観を存分に楽しむ。奥穂高への稜線はひときわ険しく、熟達者のみに許されるコースとされるだけに、その迫力も満点である。吊り尾根から前穂高・明神岳の景観も夏山とは一味も二味も違った眺めであり、  春山の醍醐味を満喫させてくれる。 11時35分、頂上を後にし、一段下がった西穂高沢下降点のコル状のところで昼食をとり、12時丁度に西穂高沢の下降を始める。全員オーバッズボン、オーバシューズ、オーバ手袋と冬山装備に身を固め、グリセードや尻セードに備える。上部はかなり急峻であり、用心のため大畑、西谷の女性2名は遠藤、津川がザイルで確保しながら下ることとする。 まず吉田が先陣をきって滑り降りてゆく。つづいて小林、橋本がひとりつづ適度な間隔を空けて降りてゆく。女性サポート組に先がけ菅田がザイルでの下降を試行、80mいっぱい延ばして停止。サポート隊の下降を指示する。下降コースはU字溝となり適当に押し固められているため結構スピードが出てしまう。 津川−西谷組、遠藤−大畑組が慎重に下降開始。40mつづをピッケル制動をかけながらスタッカットで小刻みに下ってゆくのを確認しラストにまわる。津川−西谷組はぐんぐん下降し高度を下げている。 12時20分頃、一本上流のルンゼを下降していたパ−ティの様子がおかしいのに気付く。尋常な滑り方ではなさそうである。=表層雪崩に乗っかって押し流されている模様だ= かなりのスピードである。そのまま進めば我々の沢と下で合流することになり、先行して下降している我々のパーティに突っ込む形となりこのままだと大変なことになる。自分自身も時折グリセ−ドを止め、U字溝の中を尻セ−ドで下降してみたが、体の前後を湿潤な雪と一緒に滑ってゆく形となり、その量は次第に増えてゆき、それにつれて自分の身体の自由が次第に奪われてゆく。徐々にコントロ−ルできなくなり、危険すら感じはじめ、焦る気持ちを押さえ、必死に停止体制を取るがなかなか止まらない。制動をかければかけた分だけ後ろから押してくる湿った雪の圧力が背中に強く感じられ、自由をさらに奪う形となる、何とか停止しなければこれ以上湿った雪に巻きつかれては本物の雪崩状態になりかねない。そのうち上部の急傾斜にくらべ、若干ゆるくなり辛うじて停止できた。後ろから押し流れてくる湿った雪の圧力は想像以上に大きく、停止するときにはググ−ッと圧迫され、腰から下が埋もれた状態に動きが取れない。雪崩に遭遇し停止 したとき、雪に埋もれているか首から上が出ているかが、生死の分かれ目になるように思える体験だった。 下の方ではなにやらバタバタと動き回り、こちらを呼んでいる様子だ。腰から下の固く引き締まった雪を何とか自力で掻き退け脱出。再びグリセ−ドで下降を開始。途中、遠藤−大畑組に尻セ−ドを止めコンテニアスで下るように指示し、急ぎ下ってゆく。 やはり心配していたとおり、左の沢の表層雪崩が合流してきて、津川−西谷組が巻き込まれたようだ。「西谷さんがけがをしてしまった」という。見れば左頬の後ろ、耳の下を座創している。急きょ右岸の安全な場所に移動させ、携行していた救急医薬品で応急処置をする。傷の大きさの割りには出血は少ないようだ。どうやら津川−西谷組のザイルに、雪崩組のメンバ−が滑り込み絡んでしまいそのときに自分のものか、そのパ−ティのピッケルのブレ−ド部分で怪我をした模様である。  表層雪崩で転がり込んできたパ−ティはなんと三菱電機名古屋製作所の名菱会山岳部の3名(浜島氏、市川氏、三代氏)であった。「世の中広いようで狭いもの」とこんなところでも実感!。  応急処置ののち13時15分BCに帰着。13時50分前穂隊もBCに帰ってきて事故を知る。  津川の話によれば当時の様子は次のような状況であったらしい。津川−西谷組はザイルで結び合い2ピッチ約120mぐらい下降した地点で、左手から合流してくる急峻なルンゼから、猛烈なスピ−ドで3名が転がりこんで来て、津川−西谷組のザイルの間に飛び込んできた形となり、ザイルがお互い絡み合い5名は自由が効かなくなってしまう。津川は滑りながら何度も制動をかけたが止まらず、だんごになって西穂沢を滑落していった。途中、名菱会山岳部の浜島氏は脱出できたことを停止後に本人から聞いた。津川は途中より危険を感じ、滑落しながらザイルをなんとか外し、すぐ先を頭を下にして滑落してゆく西谷さんを助けようとそのまま滑ってゆく。名菱会山岳部の三代氏は完全にザイルに絡み、市川氏はザックを外し、握っていたピッケルも手から離して滑落してしまっていたらしい。  少し先行して下降していた橋本は、途中他のパ−ティが大声で後ろからの危険を知らせてくれたので、あわてて谷芯からコ−スを避けると、少し時間がたってから4人が団子状態でアッという間に滑落していったということであった。  この様子は向かいの奥明神沢を下降していた前穂アタック隊も全員が確認しており、これは只事ではないと判断し下降の足を早める。  4人は一旦自然に停止したが、直後に上から流れてきた雪崩に5mくらい飛ばされやっと停止。そのとき津川と市川氏は運良く埋もれていなかったが、西谷さんは胸まで、三代氏は首まで埋もれていたので、西谷さんを先に掘り出し、その後三代氏を掘り出した所に菅田が下降してきて、西谷さんの応急手当をしているところへ遠藤−大畑組が到着してきたというのがそのときの状況である。  トランシ−バで前穂隊にも連絡がついたので、津川、西谷、菅田と名菱会山岳部の市川氏、三代氏はBCへ下降する。それと入れ違いにBCから、小林、吉田がスコップを持って引き返して登ってきたので、遠藤と名菱会の浜島氏の4人で、西谷さんの左足登山靴、両手のオ−バ−手袋、市川氏のザック、ピッケル、ヘルメット、津川の帽子を探す。市川氏のピッケルを除き掘り出せたため、14時捜索を打ち切りBCへ下降する。  我々は西谷さんをサポ−トし13時15分BCへ着く。しばらくして13時50分に前穂隊がBCに帰ってきたので、今回の合宿リ−ダである前畑とも相談し、前畑、菅田、大畑さんの3名が西谷さんをサポ−トしてすぐ下山することとし、大急ぎで荷物をまとめ、14時50分BCを出発する。焦る気持ちを押さえ、1歩1歩慎重に下降、15時50分上高地に着き、東大医学部の学生が開設している応急診療所へ立ち寄り、専門の応急処置をしていただく。医学生も傷がかなり生々しいのでかなり緊張気味に「なるべく早く松本へ出て処置してもらってください」と指示してくれる。礼を言い16時20分タクシ−にて上高地をあとに松本へ向かう。タクシ−の運転手が「大学の病院に行きましょう」と案内してくれて、18時丁度に信州大学医学部の松本丸の内病院に着き、すぐに診察室に入る。  その間に電話で秋山山岳部長宅に事故の連絡を入れる。西谷宅には「もう少しケガの状況がはっきりしてから」連絡することとし、医師より呼ばれ診察室に入る。西谷さんは応急手当ての包帯をとり除かれ、消毒が済み、おそらく縫合前の状態と思われるところで呼ばれた模様だ。自分の手で応急処置をしているときは、必死であり傷口を詳しく確認するだけの冷静さも無かったのか、ケガの状況はあまりハッキリとは把握できていない。ここで先生の説明を受けながら見たところでは、左の耳の下をピッケルのブレ−ド部分でえぐったように思われ、ビラン状態でめくれていた。どうやら首の血管には達していないので出血も少なくて済んだとのこと。不幸中の幸いとホッとする。  手当てを済ませて診察室を出てきたのは18時30分。先生より「ガ−ゼを中に詰めており全部縫合していないので明朝もう一度来るように」と指示され、薬を受け取り病院を出る。今夜の宿は近くの「信州会館」とし、19時30分チェックイン。5階の20畳の大広間に通される。遅い夕食を作ってもらい、西谷さんは御飯少々とみそ汁、牛乳を1本飲む。顎を動かすと痛むらしく、当然食欲も余りないようだ。21時15分、西谷宅へ本人より電話連絡、秋山宅へもその後の状況の連絡を済ませ、22時10分就寝。西谷さんは少し発熱もあるようなので、水道水でタオルを冷し湿布。左脇腹部も打撲によると思われる痛みがあるようなのでここにもタオルで湿布をしてやる。この頃から顔の腫れも大きくなり始めるが仕方がない。  0時30分、6時間毎の服用を指示されていた抗生物質と思われる薬を飲ませる。今夜は3人徹夜の看護になりそうだ。4時頃まで20〜30分毎に湿布を取り替えていたが、その後は熱も下がったので湿布も終える。

■ 5月4日(月) 晴れ

6時20分、抗生物質の薬を飲ませ、その後は寝ていても身体が痛く、鈍ってしまいそうだと言って起床、夜中に飲み残していた牛乳の半分をたいらげる。顔の腫れは昨夜より更に増してきた。本人も鏡を見て「ヒャ−!哀れな顔」と驚きながら笑っている気の強い性格に我々も救われる思いだ。  朝食を済ませ、大畑さんは病院へ順番待ちに出掛け、前畑は松本駅へ "ちくま1号"の座席指定券の確保に出てゆき、西谷さんを連れ8時35分病院に向かう。  昨夜のガ−ゼを取り除き、縫合を済ませ、お礼を言って10時に病院を出、信州会館へ戻り帰り支度をする。座席指定は確保できたものの、何となく落ち着かない気分が頭から離れない。  松本12時14分発の "ちくま1号"に乗り込む。途中6時間毎の薬を飲ませながら、大阪駅に着くと秋山部長が心配して迎えに来てくれていた。  兵庫駅近くの西谷さん宅まで送り届け、暗くなった夜道をそれぞれ自宅へ帰る。合宿メンバ−一行も今日の内に下山、今夜の夜行列車で帰神の途に着く。天候には恵まれたものの厳しい春山合宿となってしまった1週間であった。

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